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Member's Blog "中学英語で赤点をとっていた男がいかにして翻訳者になったか"

ロンドンの空は今日も曇りだった。しばらくすれば、晴れ間が見えたり、パラパラと小雨が降ったりを繰り返すだろう。美術館からの帰り、ロンドンバスの2階席から何を見るわけでもなく視線を外に向けていると、雲間から強烈な光が差し込み、古い建物を鮮やかに照らす瞬間がある。変化するもの、変化しないもの、そして個人を感じる時間だった。

ぼくは勉強ができない

高校を卒業して数年後、ギャラリーで働きながらアンティークや美術について勉強したいとぼんやり考えていたときに、縁あって知人から紹介してもらったのがイギリス、ロンドンだった。英語の勉強からやり直しだったが、本場で学ぶために必要なこととして一念発起。というのはウソで、何とはなしに、ぬるりとロンドン北部の学生寮から語学学校に通う生活が始まった。

その時、なぜ英語の勉強に抵抗がなかったのか自分でも分からない。英語は好きでもなければ得意でもなかった(今でもそれは変わらない)。むしろ、中学生の時に赤点を取るような、わかりやすい落ちこぼれの生徒だったといえる。何しろ、完了形という概念がまったく理解できていなかった。目的も分からずに「正解」を導かなかければならない複雑な暗記パズルを延々と押し付けられているような息苦しさを英語に感じていた。

メルティングポット

しかし、イギリスで学習した英語は、今まで教わったものよりも遥かに自由だった。そこには「継続」「経験」「完了結果」を表す3つの現在完了形などは存在していなかった。過去の出来事が今につながっている感覚を伝えるための取り決めがあるだけだ。また、いつも強気なトルコ人に男嫌いのロシア人、落ち着き払った態度のドイツ語圏のスイス人集団に、それを横目に疎ましく見るイタリア語圏のスイス人、エネルギッシュなコロンビア人や女たらしの韓国人など、クラスメートたちが話す洗練されてはいない英語は、自分の日本語英語も含めて、文法という取り決めの中で個々の考え方や文化をのびのびと表現しているように感じられた。

こうして英語を少し知った私は、無事に大学へと進学することができた。しかし、翻訳者としての道につながるのはもう少し先の話。イギリスでの生活は、カンタベリーへと場所を変えた。

カンタベリー物語

カンタベリーといえば、カンタベリー大聖堂である。イングランド国教会の総本山で、世界遺産にも登録されている。この美しいゴシック建築の建物を見下ろせる丘の上で、美術史および美術理論を学んだ。

ここで出会ったのは、西洋哲学、そして日本文学だった。大学の授業では、美術史のほかに倫理や美学の講義に顔を出し、物事の考え方、その視覚化と言葉への再構築を学んだ。それとは別に、比較文学を学ぶ日本人の友人からの影響もあり、明治以降の日本文学を勧められるがままに読み続け、丁寧に紡がれた繊細な言葉たちに惹き込まれていった。ただ、どちらもこの先の人生で仕事に応用できる見通しは立たなかった。

卒業式はカンタベリー大聖堂で行われた。ひやりとした石の感触、埃っぽいにおいのする空間にステンドグラスから差し込む柔らかい光、四方から反響するオルガンの音。大聖堂には幸福感を刺激する装置が巧妙に用意されている(ただし、味覚は別だ。式後に食べた街一番のフィッシュ & チップスよりも、恵比寿のアイリッシュバーのやつの方が明らかにおいしい)。こうして最後の貴重な体験を終え、特に仕事のあてもないまま日本に帰国した。

その数年後、私は英語から日本語への翻訳を担当したときに初めて、原文の解釈から訳文の練り上げまで、翻訳の各工程に今までの体験が反映されていることに気づいた。筆者が英語で伝えようとする意味を把握して、その意味が持つ機能、つまりどんな影響を及ぼしたいのかを視覚的にイメージする。そして出来上がったイメージを今度は翻訳先の日本語で表現する。

訳されるのを待つ文章には、英語という枠で組み立てられた思想があり、表現された言葉の機能があり、独特な美しさを宿している。イギリスで英語を学び直さなければ、少なくとも私には理解できなかったであろうし、美術史に哲学を食べ合わせることがなければ、思考の視覚化と言葉への再変換も抵抗感なくできていたかは分からない。また、日本の文豪たちの言葉に触れていなければ、その美しさを同等の日本語で生み出すことはできなかったかもしれない。

それから

というわけで、イギリスで体験したことに意味をでっち上げる試みはここで終わる。刺激的で自由を感じた大都会ロンドン、大聖堂のそばで好きなことだけを吸収してきたカンタベリー。このどちらも体験する機会を得たうえ、今もなんとか生きている私は幸運だと思う。イギリスなんて特に見どころもない、などと軽口を叩きながら、他人にイギリスを嘲られるようなことがあればひどく機嫌を損ねる。そんなひねくれた私にとって、この土地は第二の故郷と言えるのかもしれない。

#書き手プロフィール
名前(ペンネームも可):Harumaki
部署         :Product, Product Planning
WOVN 歴        :3年

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